私たちは一緒に暮らしていても、離れていても、家族や血縁者については「お互いに気持ちはわかっている」と思って生きてきているものです。ケンカもし、反目もしながらも、「なんだかんだといっても家族じゃないか」といった言葉に象徴されるように、「話せばわかる」とか「言わなくてもわかる」と思うことで、安心していられます。

そして父や母、兄弟などに万が一、他界するような事態があったとしても、こうした絆は変わらないと思っています。そこまで心配していたら、日々、不安でしょうがないでしょう。

ですが、残念ながら大切な家族の死は、こうした曖昧なイメージをいっきに現実に引き戻します。相続は、被相続人が死亡したときからはじまります。それまでは病気だろうと寝たきりだろうと、被相続人は生きていました。それが亡くなってから、相続ははじまるのです。このことを軽く考えている人が多いようです。

被相続人がこの世からいなくなることで、現実社会に残っているのは相続人だけです。状況は一変したのです。封建主義社会ならいざしらず、いまの日本は誰もが平等であり、長男だから、末っ子だからといった決まりはありません。忘れてはならないのは、相続人にはそれぞれに家族がいたり、知り合いがいることです。

つまり相続人たちは血縁者であったとしても、そのすぐ隣に赤の他人がいるのです。私たちが情報を分析するとき、はっきり言って、全体像を的確に把握することはできません。自分の置かれた立場によって見方は変化します。また、全体を把握できない以上、置かれた立場から見える部分的なところを一番に分析し、そこから判断していくようになります。

被相続人が生きていた間は、「こうなればいい」と思っていたことが、相続がはじまったとたん、「これではダメだ」となることもしばしばです。「このままでは家族がバラバラになってしまう」とか「大切な土地がなくなってしまう」といった発想が突然、自分の責任であるかのように思い込んでいく人も多いようです。「私は被相続人から託されたのだ」と自負する人もいます。

こうした思い込みに加えて、「あれは私が貰えるはずだった」とか「被相続人と約束していた」といった過去の話を蒸し返したり、都合よく自分の判断材料に使うようになります。

各人各様の思いがじょじょに噴き出してくると、相続はもめてしまう可能性が大きくなります。亡くなったのはそれまで家族の支柱となっていた人なら、なおさらです。リーダーなき集団は、決断が下せない状況に陥ってしまいます。

さらに、被相続人が生前、相続人に隠していたことがあった場合、景色が一変してしまいます。「実は、愛人との間に子がいる」といった衝撃的な事実が遺言で明らかになったり、財産だとみんなが思っていた土地がすでに借金の担保として他人名義になっていた、といったことがわかったり……。

このように、どれだけ事前に準備を念入りにしても、人の心は変わりますし、隠し事があれば誰もが納得できなくなってしまい、もめてしまう原因となります。

この点でできるだけ生きている間に隠し事はないように整理しておきたいものですし、心の準備だけでは死後の人々の気持ちの変化には対応できないので、遺言などによって手続としてしっかりした道筋をつくっておく必要があります。場合によっては生前贈与をするなど生きている間に手を打っておきたいものです。